江戸時代に漫画は木版画として量産され、大衆のものとなった。これらは版本や浮世絵の一ジャンルとして描かれたものだった。

明治時代に入ると、新聞、雑誌と言ったジャーナリズムが登場し、そこに亜鉛凸版印刷など大量印刷が可能な技術が導入され、瓦版に代表される江戸風ミニコミから近代的マスコミに発展していった。


近代漫画ジャーナリズム誕生の突破口を開いたのは、明治10年3月24日に創刊された『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』である。これは野村文夫が英国留学中に目にした漫画雑誌、『パンチ』を参考に編集、出版した風刺雑誌である。


このころ自由民権運動が高まりを見せており、これを支持していた『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』は年を追うごとに人気を得ていった。

成功の理由には野村自身が内務省の官吏出身で民権運動に関する十分な情報を得ることが可能であったことがあげられる。

同誌は売捌所という販売店で販売されたがその当時の設置場所数をみると、栃木・群馬・千葉・神奈川・静岡・兵庫などがその数で目立ち、これは自由民権運動が盛んな地域と一致している。





團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』は画塾で学んだ本多錦吉郎、「光線画」で有名になった小林清親(ともに幕臣の出)が中心となりながら、人気を博していった。

小林は本多の後任として風刺画を担当するようになるのだが小林は社会風刺を一層辛辣なものにしていった
。明治11年には姉妹誌、『驥尾(きび)団子(だんご)』が隔週刊誌として創刊(五月から週刊)された。


これは『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』に連載されていた戯作部分を独立させたものであり、『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』が政府批判をあおるとして、発禁処分になった時にはその代わりに送付され、収入源と読者離れを食い止める役割を果たした。

團團(まるまる)社の政府に対する反骨精神は際立っていたが、明治16年に新聞紙条例が改正、『驥尾(きび)団子(だんご)』に代表される「身代り新聞」は一切禁止され、同年五月に終刊した。





驥尾(きび)団子(だんご)』が創刊された同じ年には、『月とスッポンチ』が創刊され、仮名垣魯文など当時の人気作家も活躍している。

こうした風刺雑誌は東京のみならず関西でも、京都で『()(らく)多珍報(たちんぽう)』が大柴法釼(おおしばほうけん)によって創刊されたりするなどしている。

これもまた風刺画で人気を集めた。しかし、明治13年11月5日号に掲載された「太政官門前」に添えられた文章が明治天皇を誹謗するとして不敬罪に処せられ、その後終焉を迎えた。






フランス人画家、ジョルジュ・ビゴーも明治期の日本近代漫画の発展に大きな足跡を残した一人である。

1860年にパリで生まれたビゴーはパリの国立美術学校、エコール・デ・ボザールに在学中、当時ヨーロッパ、とくにフランスで関心が寄せられていた日本美術趣味(ジャポニズム)の流行に強く影響を受ける。明治15年に来日し、陸軍士官学校の画学教師を務めることとなる。

明治18年3月、ビゴーは自由民権運動指導者の中江兆民の主宰する仏学塾のフランス語教師として雇われた。

以後、中江との交流を深めていく中で、日本の政局についての問題意識に目覚め、明治17年には第一次『トバエ』を刊行するが、これは一号きりで終わった。


来日以来、四冊の銅板画集を刊行したビゴーは帰国を考え始めた明治19年、偶然にも英仏画報紙の通信人の仕事を得て、帰国を延期することを決意する。

この仕事の傍ら明治20年に有力フランス人、フランス公使館の援助を受け第二次『トバエ』を刊行。このタイトルは「鳥羽絵(江戸以来の漫画の意味)」からとっていたことからもわかるように全頁辛辣な風刺画で構成されていた。



これは『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』が五銭であったのに対し八十銭と高価なもので一般読者よりは新聞社に送るなどするプロのジャーナリストとしての仕事であった。

そして日本のドイツ化に警鐘を鳴らし、列強を強く意識した条約改正が時期尚早であることを指摘したりした。

官憲に注意人物として目をつけられたが、それでもビゴーは真実の日本を書き続けた。そして官憲の弾圧から逃げるため離日する17年間の間『日本人の生活』『日本人生活のユーモア』など注目すべき雑誌を多く送り出した。





明治・大正期の漫画史を語る上で宮武外骨は避けて通れない。
彼は『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』を超える雑誌の立ち上げを夢見て明治20年4月『頓智協会雑誌』を創刊した。

これは全国各地の新聞や雑誌に掲載された興味深い雑報、論説などを二次使用したものであったが成功を収めた。外骨20歳のときである。


しかし、単なる娯楽にとどまらず強烈な反骨精神に充ち溢れた外骨は第28号で明治憲法発布式のパロディを掲載し、発禁処分とされた。
しかし、この出来事でますます政局批判や官僚批判を強める。

天皇制官僚国家の腐敗した実態とそれがもたらす弊害を暴き、広く国民に知らしめるためには、毒舌罵倒ぶりを紙面で発揮する以外ないというのが外骨の生涯を通じたポリシーであった。

その後借金を抱えて台湾に逃げていたこともあったが、豊富な漫画、風刺画、罵倒記事が中心の『滑稽新聞』が大成功。社会批判の手段として、外骨のアイデアから社会主義思想も取り入れ、現代にも通じる辛辣な風刺画を連発した。

明治41年の第173号で度重なる摘発に外骨は腹を立て、「自殺号」として廃刊した。

しかし、早くも2週間後には『大阪滑稽新聞』と改題して復活し、その後も長期刊行された。しかしキャッチフレーズは「肝癪と色気」から「趣味と実益」に変わり、内容はトーンダウンした。この二つは全国紙であり、読者は関西の男性が多かった。






團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』で才能を発揮した小林清親の門下生であった田口米作は戦争を題材にした錦絵で次第に注目されるようになった人気画家である。

明治28年からは師と同じく、『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』の政治風刺漫画の執筆をするようになったが、彼はここで似顔絵やヨーロッパではやり出したシンプルな表現を効果的に取り入れた作品を発表している。

彼の持ち味を一言で表現するなら「軽妙」の言葉がふさわしい。
絵筆を使い、亜鉛凸版印刷によって軽いタッチの作品を数多く生み出した。


彼の作風には当時ヨーロッパで人気の高かったドイツのW.ブッシュのコマ漫画などの影響がかなり大きかったと思われる。フランスの『リール』やドイツの『シンプリチシムス』などを熱心に研究した。

こうした研究が明治29年の『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』に3号にわたって連載された6コマ漫画、「江の島鎌倉長短旅行記」という作品である。

以前にも、他の作者によるコマ漫画は登場していたが、ストーリーの中にキャラクターを確立し、しかもセリフの入った連載物はこれが最初である。

漫画雑誌への執筆だけでなく、漫画作品集『滑稽画談 長短之巻』や『滑稽画談 四錘之巻』なども刊行し、明治20年から30年代を代表する漫画家となった。





明治29年に森鴎外が創刊した文芸雑誌『めさまし草』の漫画を担当した長原孝太郎は、不同舎の小山正太郎とドイツから帰国した原田直次郎に洋画を学んだ人物である。

漫画や挿絵の分野で活躍したのは一時期であったが発表作品も多く、明治期の風刺作家のひとりとして言及しておくべき人物である。

彼はビゴーのリアリスムに多大な影響を受けた。

彼はビゴーがつけた挿絵を別の出版から刊行される同タイトルの本に、ビゴーの挿絵をそっくりまねた構図の作品を石版画で書いた。長原は『めさまし草』の裏表紙に毎号書いた世相風刺漫画で注目された。





日清戦争の時期には『日本萬歳百撰百笑』などの戦争錦絵が主流であった。

終結後は同じく戦争錦絵に代わって、同じく浮世絵師たちによる「ポンチ本(題名にポンチと入った雑誌)」の出版ブームが起き、日露戦争期まで続いた。

表紙は木版多色刷りか石版多色刷りで、中身は石版刷りが多かった。
しかし、自由民権運動が終わると風刺画は迫力を失っていき、「ポンチ本」という使われ方が浸透したころは荒唐無稽な面白絵、またはそれらを掲載した本をさすようになった。


この時期『滑稽新聞』に影響を受けて、「滑稽」とつくタイトルの雑誌が多く刊行され、「滑稽」と言う言葉が流行していたことがうかがえる。

この影響を受けた北沢楽天は明治38年に『東京パック』を大ヒットさせた。そして競合誌を生み出すことになる。

44年続いた『大阪パック』もそのひとつであり、大阪人向けの内容で人気を得た。

ただ『東京パック』などの国民的人気雑誌は毎号8~10万部を誇ったが、『大阪パック』はそれにはとうていおよばず、仁丹、森永などのスポンサーの広告にスペースを割いた。






明治40年には柏原佐吉によって日本で初めての児童漫画雑誌、『少年パック』が創刊された。

これはイギリスの子供漫画新聞、『PUCK』を手本にしたもので人間が物にぶつかったときに出る星の表現などを真似た作品が見られる。


また明治36年ごろから学生の間で「絵葉書交換」が流行り出し、定着した。

外骨は『滑稽新聞』の定期増刊として風俗・世相風刺、外国漫画などを多色刷りでとりいれた戯画絵葉書30枚で構成された『絵葉書世界』を創刊した。

同時期には「コマ画(挿絵の一種でそれ自体が独立した主張を持った詩画)」のブームが起き、明治40年代には人気のコマ画作家たちが作品を発表するようになる。

ここで注目したいのは製本機などの導入などにより和綴じのスタイルから洋綴じのスタイルで製本された点である。

そして「漫画」が現代と近い意味でつかわれるようになった時期でもある。コマ画は大正に入り、竹久夢二に代表される叙情画と岡本一平に代表される漫画に分裂していく。





北沢楽天(幕府とゆかりの家柄の出)は、漫画家としてだけではなく、編集クリエイターとしての才覚を持ち合わせた特異な人物である。

明治・大正・昭和戦前期を通じて日本漫画界に大きな影響力を持ち、数多くの漫画家を育て世に送り出したことで知られる。

彼の漫画人生を語る上でオーストリア出身の漫画家、フランク・ナンキベルとの出会いの意味は大きい。


明治20年代英字紙『ボックス・オブ・キュリオス』に漫画を描いていたナンキベルは若き日の楽天に欧米の近代漫画の技法を教えている。

この交流は2年ほどであったが楽天は才能を開花させ、明治27年にナンキベルがアメリカに渡った後は後任として同誌の漫画欄を担当し、国際政局を風刺するような画を描いた。


こうして漫画家としての道を歩み始めた楽天に福沢諭吉が注目した。

明治32年に『時事新報』に迎えられた楽天は漫画担当記者として風刺漫画に才能を発揮する。楽天はたちまち看板漫画家となり、明治35年には「時事漫画」という日曜特集欄を組むようになった。

この欄の特集も手がけていた楽天は、だれでも楽しめる日曜特集にするために、アメリカの新聞漫画の内容や日曜付録のスタイル研究に相当力を入れたようである。

ここでの連載漫画からは数々の名物キャラクターが生まれた。



田吾作(たごさく)(もく)兵衛(べえ)』では田舎者の二人が東京で目にする物全てに驚き戸惑う様子が人々の笑いを誘った。
遊びにエネルギーとお金を注ぐ明治の「新人類」を描いた『灰殻木戸郎(はいからきどろう)の失敗』、特に『茶目と(でこ)坊』はかるたや人形に商品化されるまでになり、日本におけるキャラクターグッズの第1号となった。

こうした活躍の成果は大正10年創刊の『時事新報日曜版漫画付録 時事漫画』に実を結ぶ。


明治期の漫画家の風刺エネルギーは出身の宿敵である藩閥政府を批判することに源がある。
『東京パック』はその面で社会主義についてはかなりの理解を示していたことが編集方針からも分かる。

たとえば明治42年8月10日号の「月世界に(おけ)る演説」は血税(徴兵制度)を政府の横暴であると社会主義的な見方で批判している。

しかし、大逆事件が始まると「植物学と珍草」のように社会主義に疑問を呈するようになる。
その後の楽天の風刺パワーは次第に失われて行き、ついに社主と仲違いを起こし明治45年に東京パック社を去る。


しかし、退社からわずか1カ月余りで『楽天パック』と婦人と子供を対象にした『家庭パック』の二誌を創刊した。

また明治時代には最後の風刺浮世絵ブームがあった。

その中で「狂斎百図」などの作品が生まれた。また、1839年には世界初の実用写真技術として銀板写真(ダゲレオタイプ)が発表された。

こうした写真技術の普及も漫画界に影響を与え、ビゴーも日本写真会に入会し、技術を習得している。






余談だが日本とヨーロッパの間では風刺画の成り立ちが違う。

日本では木版刷りの次にいきなり亜鉛凸版印刷(『團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)』の登場から)、写真凸版印刷と移ったがヨーロッパでは木版画から始まり、18世紀にイギリスのホガールやスペインのゴヤが銅版画の傑作を発表したのがきっかけとなり、銅版画刷りが主流となる。

石版刷りは19世紀中期に『カリカチュール』などの風刺画をそれで掲載されたことから盛んになり、それを経て亜鉛凸版印刷となったのである。




大正時代は大逆事件から続くムードにより、弾圧を恐れた風刺パワーの減退が読者離れを起こした。特に大正期前半は漫画雑誌の休廃刊が相次ぎ、『大阪滑稽新聞』『東京パック』もその中に含まれた。

このようななかで『大阪パック』と明治42年に創刊された『東京新滑稽』は健闘した。前者は関西を中心とする読者層の確実な獲得、後者は暴露記事で人気を得た。



『東京新滑稽』を舞台に傑作漫画を数多く発表していたのが山田実である。

彼は東京美術学校(岡倉天心が創立者)洋画科在中から『東京新滑稽』などに漫画などを描き、明治45年には三人の漫画家と共作で『ヘボ画集』を出版。大正3年に卒業すると中央新聞社に入社するが、岡本一平に才能を買われて朝日新聞社に移る。

岡本は初の漫画家団体、東京漫画界を結成し、漫画の地位向上とアピールに力を注いだ人物である。

漫画同人誌『トバエ』を創刊し、「美術としての風刺画」の発表の場を作った。

大正12年の関東大震災後に岡本が島根に疎開している間、『朝日新聞』の漫画を支えていたのが山田である。代表作は『酒の虫』などである。





この後、労働運動からプロレタリア漫画が生まれ、映画、演劇、流行歌などの分野は成熟期を迎え娯楽雑誌や漫画雑誌の世界も活気を取り戻した。

この波に乗って大正8年に外骨主催で楽天の弟子小川治平の協力を得た『赤』が創刊された。挑戦的なタイトルと、高レベルの漫画を掲載してはいたが、新聞と同サイズの大きさが庶民には合わなかったようで、半年で姿を消した。

もうひとつ、第三次『東京パック』も創刊された。これには『国民新聞』に漫画を描いていた池部鈞(いけべひとし)、『読売新聞』の前川千(まえかわせん)(ぱん)といった新聞漫画家がこぞって寄稿した。

また、第四時『東京パック』の立役者となった下田憲一郎が編集者として加わった。






大正期の巨星、岡本一平は『朝日新聞』上に軽妙なタッチで描いた漫画(岡本自身は「漫画散文」と称した)、さらにこれを進化させた映画小説、漫画小説と言った独自の世界を広げた。

代表作に『人の一生』がある。


これは平凡な主人公(ただ)野人(のひと)(なり)が誕生から余生の人生を縦軸に、人成をめぐる四人の女性の運命を横軸に書いた作品である。ただの凡人が代議士にまで上り詰めると言うサクセスストーリーをユーモアたっぷりに描いた大作である。

この当時の人気漫画は映画化されることが頻繁にあったが、『人の一生』もその例にもれず、昭和3年に三本映画化された。

また『一平全集』は当初全十巻で企画されたが、予約の時点で五万セットを超えたため、全十五巻に変更した。また東京漫画界のメンバーによる漫画漫文のシリーズ本、「漫画双紙」が次々に出版された。

岡本は明治30年代に日本に広く紹介されたアール・ヌーボー様式の特に植物的な曲線を表現に取り入れた小杉未醒に影響を受けたと考えられる。また活動写真も彼のタッチに影響を与えたと考えられる。





明治20年代に登場したストーリー漫画は大正時代に入ると一気に質を高めた。代表的なものは『夕刊報知新聞』に大正12年から連載された麻生豊の「ノンキナトウサン」、そして上記の「人の一生」である。

「ノンキナトウサン」は、アメリカのジョージ・マクナマスの描いた『親爺教育』にコマ割の体裁や吹き出しのスタイル、表現法の影響を受けている。

お手本となった、『親爺教育』は大正12年から『アサヒグラフ』と『朝日新聞』に掲載されていた。


「ノンキナトウサン」は万年失業者たちの日常や人生の悲哀を描いた、ギャグとペーソスに充ちあふれた作品である。

主人公の「ノントウ」は長らく失業時代にあったが、幸運に恵まれ、ついには巡査、俳優、アナウンサーなどの花形職業に一時的ではあるが就くことができる。しかし、その後はまた貧乏になったりと波乱万丈の人生を描いている。

大正12年に創刊された『日刊アサヒグラフ』に大正時代のスーパーアイドル「正チャンとリス」が登場した。これは日本初の新聞連載四コマ漫画となった。

そしてついにはカラー版で別冊を含めて7冊の単行本が出版されるに至る。





またペンネームは明治20年代あたりから、言論や出版に対する政府の圧力が強まるにつれ浸透していく。

大正期は漫画家の団体や同人誌、研究誌が続々と誕生し、最も精力的に活動が展開された時期である。

大正デモクラシーの影響を受け、民本主義に目覚め、変貌を遂げる社会に対して、自分たちの生み出す作品がいかに役立ち、影響を与えるのかというテーゼに積極的に取り組んだ時代であった。

言ってみれば「漫画で社会を変える」ための挑戦であった。



昭和7年6月、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄、矢崎茂四ら20名によって新漫画派集団が結成された。

彼らは欧米のナンセンス漫画に刺激され、日本的なナンセンス漫画を売り物にして注目され始めた。


彼らは既存の漫画家が活躍の場としていた新聞や雑誌への参入を積極的に行い、加えて新たなマスコミ市場の開拓に成功した。

彼らが集団結成後直ちに漫画創作活動を実行できたのは、昭和4年8月創刊の『マンガマン』への寄稿実績があったからである。





『東京パック』はこのころ経営者や編集者を変えながら発行が続き第四次となっていた

。編集長は下田が務めていたが、この編集で留意したことは『リール』や『シンプリチシムス』のようなヨーロッパの風刺漫画雑誌を目指すことであった。

そして多くの漫画家団体から公平に執筆者を選定して寄稿依頼することだった。その結果、内容は松山文雄などに代表されるプロレタリア漫画と、下川凹天らに代表されるエロチック漫画が二大柱になっていった。


この点で「美術としての漫画」すなわち風刺美術の想像によって、漫画表現の新しい可能性に漫画界に示した点で重要な意味を持つ雑誌だった。

しかし、昭和16年、太平洋戦争を目前にして下田はこの雑誌を休刊させる。もはやプロもエロも許されない時代になったのである。

こうした昭和初期の漫画のモダニズムに影響を与えたのは、ドイツのゲオルゲ・グロッスである。

『東京パック』は体裁などの面で大いに参考にされ、昭和4年、北海道で初めてとなった(日本漫画化連盟の北海道支部の会員が中心)本格的漫画雑誌『漫画時代』もそのひとつであった。

この寄稿者には地方紙でありながら藤山天保などがおり、後に東京で活躍する若者たちの作品が増えて行った。





昭和3年『時事新報日曜付録 時事漫画』ではじまった、「とんだはね子」は第9回アムステルダム五輪で活躍した人見絹江の活躍に象徴されるような「新しい女」の活躍を期待する世相があった。

このころ楽天はマンネリ化を打破するために世界旅行に赴き、この時の体験記を「世界漫遊漫画」と題し、紙面のトップに掲載し、注目を集めた。

このころ新聞各社は『時事漫画』の人気にあやかって、次々に日曜付録に力を入れるようになった。『読売新聞』は『読売サンデー』、『東京日日新聞』は『東日マガジン』などを刊行した。

これに『時事新報』は対抗し、昭和6年に『漫画と読み物』と改題し、小説や映画紹介、スポーツコーナーを取り入れた。

しかしこの努力は成功したとは言えず、ついに昭和7年に楽天は時事新報社を去ることになった。


楽天も苦労した日曜漫画付録の中で最も成功したのは『読売サンデー漫画』であった。

『読売新聞』は途中までは部数の点で伸び悩んでいた。このため大正13年から正力松太郎を社長に迎え、いろいろな試みに挑戦、その一環として漫画重視の方針を打ち出し、車内に漫画部を設け、麻生豊、下川凹天などを入社させ『読売サンデー漫画』を誕生させる。

これは新聞紙4ページ代の大判、カラー刷りで連載漫画にも「甘辛新家庭」「あわてものの熊さん」など傑作が多かった。






昭和戦前期の子供漫画の名作を世に多く送り出したのは講談社と中村書店のふたつである。

前者は『少年倶楽部』『幼年倶楽部』で「のらくろ」「タンク・タンクロー」「コグマノコロスケ」などの人気漫画を単行本化し、多くのベストセラーを生み出した。

またちょうどこのころは映画が子供の生活に影響を与え始めた時期でもある。

『無敵三銃士』が活動写真漫画というキャッチフレーズで売られた。後者は紙面からぬくもりや優しさがストレートに伝わってくる謝花凡太郎の「ミッキーの活躍」、新関青花の「まんが真田十勇士」のような名作が多かった。

新関を師と仰いだ漫画家にはうしおそうじ、今井義章らがいた。


とはいっても当時の漫画は一冊80銭から1円と気軽に買うことはできないぜいたく品であった。したがって購入できたのは中流階級以上の家庭の子供であった。

このころ、ストーリー漫画は昭和に入り、「連続漫画」と呼ばれるようになる。





こうした新漫画家集団の精力的な活動に刺激され、日本児童漫画家協会が結成された。

この団体は出版数が増えていた子供向け漫画の在り方を漫画化自身が考えるために昭和8年に結成されたもので、漫画の与える影響の是非を問う声があちこちで聴かれるようになったからである。

しかし、裏を返せば子供向け漫画が一大ジャンルを確立した証拠でもあった。

協会の会員には田川水泡、島田啓三等がいた。会員も会員以外の寄稿者にも田川、楽天門下の実力者が多かった。彼らは活動の一環として『マンガ倶楽部』を昭和8年に創刊した。

この雑誌の中ではミッキーマウスやベティ・ブープなど海外ですでに人気のあった話題の漫画を紹介しており、海外作品が親しまれていたことがわかる。

また、全国の小学校を巡回する移動漫画展を開催した。「理科漫画」といったジャンルごとにふさわしい原画を貸し出すと言ったものであり、学習漫画の先駆けであった。